アルフォンソ・リンギス
アルフォンソ・リンギス
Alphonso Lingis (1933-)

 リトアニア系移民の農民の子どもとしてアメリカで生まれる。ベルギーのルーヴァン大学で哲学の博士号を取得。ピッツバークのドゥケーン大学で教鞭をとった後、現在はペンシルヴァニア州立大学の哲学教授。
 世界のさまざまな土地で暮らしながら、鮮烈な情景描写と哲学的思索とが絡みあった著作を発表しつづけている。
 メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』、レヴィナス『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で、存在の彼方へ』、クロソフスキー『わが隣人サド』の英訳者でもある。邦訳書籍に、『汝の敵を愛せ』、『何も共有していない者たちの共同体』(以上、小社より刊行)、『異邦の身体』(河出書房新社)、『信頼』(青土社)がある。

 アルフォンソ・リンギスの経歴については、『汝の敵を愛せ:Dangerous Emotions』の翻訳者[中村裕子氏]からの質問に対して、リンギス自身が次のような回答を寄せてくれたので、それをそのまま紹介する。

 「私の両親は、ヨーロッパのリトアニアからの移民だった。彼らは農民であったので、私は、シカゴ郊外の農場で生まれ育った。私は、ベルギーのルーヴァン大学で、哲学の博士号を取得した。ピッツバークのドゥケーン大学で6年のあいだ教鞭をとった後、ペンシルヴァニア州立大学で教え始めた。
 毎年、最後の授業が終わるとすぐに、私は他国に赴く。アメリカの制度では、大学教授は7年ごとに1年間の長期休暇が与えられるのだが、私はその休暇のたびに他国で過ごした。「旅をした」というのは、正確ではない。ある一つの国を選んで、3、4ヶ月のあいだ、または長期休暇のあいだずっと、そこに暮らしたのである。最初は、フランス、イタリア、ドイツ、ハンガリー、ノルウェイ、フィンランドといったヨーロッパ諸国で夏を過ごした。その後、私は、アフリカ、アジア、オーストラリア、南アメリカ、そして南極大陸にずっと大きな興味を抱くようになった。
 本拠地として、メリーランド州ボルティモア郊外の丘陵地にある2エーカーほどの土地に、小さな家を持っている。」
リンギスの代表的著作

Excesses : Eros and Culture, State University of New York Press, 1984.
Libido : The French Existential Theories, Indiana University Press, 1985.
Phenomenological Explanations, M. Nijhoff ; Kluwer Academic Publishers, 1986.
Deathbound Subjectivity, Indiana University Press, 1989.
The Community of Those Who Have Nothing in Common, Indiana University Press, 1994. (『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二 訳、洛北出版、2006年)
Abuses, University of California Press, 1994.
Foreign Bodies, Routledge, 1994. (『異邦の身体』松本潤一郎・笹田恭史・杉本隆久 訳、河出書房新社、2005年)
Sensation : Intelligibility in Sensibility, Humanities Press, 1996.
The Imperative, Indiana University Press, 1998.
Trust, University of Minnesota Press. (『信頼』岩本正恵 訳、青土社、2006年)

これに加えて、『世界文学のフロンティア第1巻:旅のはざま』に、リンギスの「プラ・ダーレム、死の寺院」(管啓次郎訳、岩波書店)という一文が収録されている。
▼ 以下、リンギス『汝の敵を愛せ』より、「解説」を転載します。

世界と出遭う処へ

リンギスの導入のために
田崎英明

現象学――始まりへの旅

 アルフォンソ・リンギスの思考の基礎にあるのは、メルロ=ポンティやレヴィナスの英訳者という経歴からも分かるように、現象学である。現象学は、オーストリアの哲学者であるエドムント・フッサールによって創始され、20世紀の哲学潮流を、分析哲学とほとんど二分するといってもいいほどに多くの哲学者を惹きつけ、豊かな成果を生み出してきた。また、哲学にとどまらず、精神医学や心理学、社会学、あるいは文学理論においても「現象学派」が形成されるまでになっている。

 現象学というと英語圏でいうところの「大陸哲学continental philosophy」(つまり、イギリス以外のヨーロッパの哲学)の主流を成すように思いがちだが、実際には、アメリカ合州国も、哲学者の割合からいうと主流とはいえないかもしれないが、ユニークな現象学研究の伝統を持っている。現在、アメリカでの現象学研究、特に、ハイデガー研究で中心的な位置を占めるのは、ジョン・サリスJohn Sallisだろう。プラトン、ドイツ観念論、ニーチェ、ハイデガーなどについての研究書の著者であり、ハイデガーやディコンストラクションに関する数多くの論集の編者、それに何よりも、雑誌『現象学研究Research in Phenomenology』とインディアナ大学出版局の叢書「大陸思想研究Studies in Continental Thought」の編集者として英語圏現象学の成果を世に送り出す役割を果たしている。サリスは哲学を「根源的なものへの回帰」と捉え、根源的想像力についての理論を展開している。

 ニーチェ、ハイデガー、ディコンストラクションのテーマ系はアメリカ現象学のひとつの軸を形成している。サリスのほかにも、デヴィッド・ファレル・クレルDavid Farrell Krellやジョン・カプトJohn Caputoの名を挙げることができる。ハイデガーのニーチェ書の英訳者として知られるクレルは、近年、ハイデガーにおける生の概念、さらには、初期ロマン主義からニーチェにおける生と病の連関、それに、記憶の問題を扱っている。カプトは(たしかイエズス会士であったと思うが)、そもそもハイデガーと神学(トマスやエックハルト)の関係から出発したが、現在ではだいぶデリダに接近、デリダの最近の「神学化」に一枚噛むかたちになっている。

 また、実験現象学やテクノロジーの解釈学を提唱するドン・アイディーDon Ihde(最近は「サイボーグ・フェミニズム」のダナ・ハラウェイDonna Harawayともコラボしている)ももっと注目されていい思想家だろう。
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 現象学派はそのモットーとして「事象そのものへ!」を掲げる(ただし、谷徹[2002]によればこのままの表現はフッサールの著述には見られないという)。考えてみれば、これは不思議なものいいだ。私たちはすでにさまざまな事物と係わり合い、交渉を持っているではないか。私はいま、コンピュータのキーボードを叩いている。あなたは、椅子に腰掛け、机の上にこの本を置いてこのページを開き、いま読んでいるところだ。すでに私たちは事物と出遭ってしまっている。事物はそこにある。いまさらどうやって事物のところになど行けるというのか、私たちは、すでに事物の場所に来てしまっているというのに。

 私たちは、事物に触れ、それを使いこなし、あるいは、掴み損ねたりするとき、何ものでもない中性的なモノを相手にしているのではない。事物は、世界において、すでに事前に解釈され何ものかとして理解されている。事物との遭遇の瞬間は、ちょうど自分自身の生誕の時に立ち会えないのと同様に、つねにすでにやり過ごされてしまっている。私たちはつねにすでに(幾許かは)事物に馴染んでしまっている。始まりは取り逃がされてしまった。したがって私たちは始まりを掴もうとするなら、あたかもひとつの旅ででもあるかのようにそこへと向かっていかなければならない。

 フッサールの後の世代、ハイデガー、レヴィナス、メルロ=ポンティら(大雑把にではあるが「実存的現象学」と括ることができるだろう)は、生活世界の現象学を発展させた。生活世界の記述として標準的なものは、ハイデガーが『存在と時間』で展開した道具連関としての世界の分析である。私たちがそこに生き、経験する世界(生活世界)においては、事物はまずさしあたり道具というかたちで意味づけられ、連関させられ、配列されている。そこへと身体的存在である私たちは投げ出され、あらかじめそれら事物との交渉の中に、半ば埋もれているのである。この生活世界の記述を実存的現象学は試みる。

 だが、道具としての事物との関わりを記述することがどうして「実存的」なのか。「実存」とは、事物とは異なる、この私たちの特異な存在の様式のことを意味しているというのに。道具の使用のうちに埋もれている限りは、私たちは「誰でもない誰か」「誰でもいい誰か」として存在している。たとえば、私たちが言語を習得することができるのは、それが誰のものでもないからであり、誰かに排他的に所有されていないからである。そして、その習得の瞬間は、私たち自身も誰でもない存在となっている。私たちが何かの道具を使えるようになる、熟達していく過程では、誰のものでもないものを誰でもないものが用いるという様相が不可避に伴っている。

 そのような「誰でもないもの」は道具連関に織り込まれている限りで幾許か道具化している。自分自身であれ他者であれ、道具として、何か(外在的な)目的のために利用できる(自分の手の届かないところにあるものを取ってもらったり、自分のノルマ達成のためにうまく丸め込んで不要なものを買わせたり、あるいは、快楽のために誘惑したり)。しかし、個々の道具ではなく、道具連関そのものが何のためにあるのかと問うなら、事態は一変する。道具連関全体の目的、それは中世であれば神の栄光を讃えるため、とでも答えられたであろうが、今日ではそうはいかない。もちろん、一応の回答は用意されている。私たちの社会では目的となって手段とはならない存在のことを、カントに倣って「人格」と呼ぶ。

 カントが「人格」と名づけて事物と区別しようとした差異が、今日「実存」と呼ばれるものと関係している。私たちの存在を道具連関から切り離し、(それ自身が享受の対象である)目的の地位にまで高めること(理想化ないしイデア化)、私たちが誰でもないことから引き剥がし、自分自身へと生成させることが問題なのだ。私たちは自分自身であるわけではない。自分自身になるのだ。その契機を、ハイデガーは「私の死」に見たし、レヴィナスやバタイユなら「他者の苦しみ」や「他者の死」に見る。

 リンギスもこのような実存的現象学の伝統に属している。そして、リンギスがとりわけ愛する思想家たち、ニーチェ、メルロ=ポンティ、レヴィナス、ドゥルーズに共通するのは、身体と(何かに対する欠如として理解されるのではない)欲望への関心であることは注目に値する。

 以下ではリンギスのテーマのいくつかを簡単にスケッチしてみよう。

身体図式――事物の重さ

 メルロ=ポンティが『知覚の現象学』で用いた「身体図式」という概念は、リンギスにとって要中の要ともいうべきものになっている。サルトルが意識と事物をきれいに二分し、それ自体では意味を持たない事物に、いわば、外から意味を付与する意識の作用(事物への、あるいはむしろ、事物に対する超越として意識の志向性が理解される)を重視して想像力論に向かったのに対して、メルロ=ポンティは、純粋な意識でも純粋な事物でもない、「生きられた身体」の両義性に定位する。そしてその中核に「身体図式」は位置している。

 身体図式を持つことは、私たちの心の中に自分自身の身体を外から眺めて作り上げたイメージを据え付けることではない。私たちは心の中に世界のレプリカを作って、そこに自分のミニチュアを配して、初めてさまざまな事物と関われるというものではない。そのような表象主義が問題なのではなくて、むしろ、身体図式は私たちの経験が理解可能であるということ、つまり、意味を持つことの根本にあるものだ。私たちの知覚においては、事物は時間を通じて一貫した持続性を示すし、また、空間的にも、周囲から区別されるまとまりを持つ。このような知覚における統一性を、カントは図式という概念で説明した。カントでは感性と悟性との綜合を媒介する構想力の働きとして図式が捉えられているが、メルロ=ポンティは身体の作用を綜合の根底に見る。私の身体の作用と知覚の対象とは互いに見え隠れする関係にある。ものの現われ方を一定に保つには、一定の姿勢を保たなければならない。ちょうど映画で、画面が、それが映し出している対象についてだけでなく、カメラの位置にいる人物についても教えてくれるように。

 そればかりではない。身体のコミュニケーションとでもいうべき次元が、この身体図式によって開かれている。身体図式は産出された結果としてのイメージや表象ではなく、それらを産出するダイアグラムである(リンギスはダイアグラムという言葉を『監獄の誕生』のフーコーや『千のプラトー』のドゥルーズ=ガタリから取ってきている)。私たちが他者の表情や身振り、あるいは、歩き方や立っている姿勢というもののうちに理解するのは、身体図式、ダイアグラムなのである。メルロ=ポンティによれば、意味というのは、まず心の中にあってそれから表情や身振りに翻訳されるのではないし、私たちがそれらのものを理解するのも、もとの心的表象に再翻訳してからではない。意味は表情や身振りなどの表現のうちに孕まれている。私たちは自らの身体をそれらの意味に差し出して、それを受肉する。いわば、一種の擬態によって、ドゥルーズやベルクソンなら「ヴァーチャル」と呼ぶであろう身体運動的な次元において意味が生み出される。

 私たちが真っ先に理解するもの、それは他者の身体図式なのだ。しかも、リンギスにとって身体図式は何よりも姿勢を生み出す図式である。自らの重みを担い、それに耐え、どう折り合いをつけているか、である。だとすると、身体図式は人間に限られない。それどころか、知覚をもっていそうな存在にも限定されない。日の光をできる限り浴びようと枝を広げる木の傍らを通り過ぎるとき、せり出した崖の下を歩くとき、あるいは、朽ちかけ、傾いた古い廃屋を見かけたときなど、私たちは自らの身体のうちに緊張を感じている。およそ事物というものは、たといそれが幾何学的図形のような理念的存在であってもその重みないし軽さを持っており、したがって一定の姿勢を保っている。手を伸ばして掴んだものが(無意識のうちに)思っていたよりも重かったり軽かったりして不意をつかれたようになってしまうことからも分かるように、私たちは実際に事物と関わりあうに先立って、その重みを理解し、先取り的に模倣し、私たちの身体のうちで再現している。道具であれ、自然的存在であれ、私たちは、まず、その姿勢のダイアグラムとのあいだでコミュニケーションを持つのである。
エレメンタル――享受とコミュニケーション

 レヴィナスは『全体性と無限』の第二部「内面性と家政」で、エレメントの現象学とでも呼ぶべきものを展開している。エレメント(日本語訳は元基)は享受される。それは、享受の対象であるということさえできないほどに享受という行為、いやむしろ状態と切り離せない。身体図式が存在者の一種の骨格を成すのだとしたら、エレメントはそれよりも深い。エレメントは存在者と存在者の区別、そして、存在者と存在との区別にも関心がない。

 たとえば初めて訪ねた町で、私たちはのどの渇きを癒すためのビールを手に入れるよりも前に、空腹を満たすための屋台を見つけるよりも前に、あるいは、今夜の宿に疲れた体を横たえるベッドを確保するよりも前に、暑さや湿気や喧騒やにおいといったものに貫かれ、満たされる。私は町の空気を享受する。さまざまな事物を道具として使いこなす前に、私の身体図式が他の身体図式を模倣するよりも前に、熱や湿り気や音のうちに浸りこむ。そこでは内と外の境界は存在せず、私の身体と空気の暑さや湿度や騒音とを区別することはできない。道具を用いて何かの目的を実現して得られる満足よりも手前に、目的も対象も手段も、そして、主体もなしに、享受は存在する。だが、この享受に私たちはとどまっていることはできない。私たちはすぐに手段―目的という道具連関のうちに差し挟まれ、労働と交換とコミュニケーションの世界に巻き込まれれる。

 『全体性と無限』の日本語版の訳者あとがきで合田正人は『全体性と無限』を「エコノミー・ポリティック批判」とする見方をしめしている。リンギスもまた、レヴィナスのエレメント=享受論を、クロソウスキーやドゥルーズ=ガタリへと接続していきながら、エコノミー・ポリティック批判を展開しているのである。

 レヴィナスの『存在の彼方』の中の身代わりをめぐる諸章は一種の記号論をなしているのだが、おそらく、そこで展開されている「自らを記号とする」ことが、クロソウスキーの倒錯論(リンギスは「クロソウスキーの『わが隣人サド』を英訳している)や生きた貨幣をめぐる議論へとスィッチされ、さらにドゥルーズ(『意味の論理』のシミュラークルとコミュニケーションの問題、そして、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』)へと連なっていく。

 もちろん、レヴィナスの身代わり論は自己と他者とのあいだの関係の非対称性、私だけが「他の代わりに=他のために」という責任を負っており、これを誰かと交換できないということをいうために立てられている議論だ。だが、自己と他者の二者関係ではなく、自己が他者の身代わりとして第三者の前に召喚されるというこの構図は、『悲劇の誕生』以来のニーチェの記号論=コミュニケーション論と通底するものである。死においてのみ、死にゆく者と生き残る者、殺す者と殺される者の絶対的非対称性においてのみ真正のコミュニケーションが成り立つと考えるバタイユや、死の非人称性のもとに語る声の探求者ブランショ、あるいは、自分が自分自身の身代わりであるような存在、すなわちシミュラークルにおけるコミュニケーションを追究するクロソウスキー。こういったサドとニーチェを思考の出発点に置く人々と、リンギスの歩みは交差する。
顔、表面、命法――自らを記号とすること

 私たちは自分自身になる。私たちが最初に従う命令は「法に従え」ではなく、「法に従う存在たれ」というものだ。この命令への服従を通して私たちは自分自身になるし、世界は秩序あるものになる。だが、この服従が自律的なものなのか、他律的なものなのかが問題になる。

 カントは、道徳法則を意志が従うべき格率をあたかも自然法則であるかのような普遍性たらしめることに求めた。たとえば「うそをついてもよい」というような格率はこの普遍化のテストに耐え切れず、排除される。このとき個人は普遍性の見本(タイプ=範型)となる。他者に対して自らを記号とするのである。それに対してニーチェは、同じく意志に関する選別の原理ではあるが、普遍化ではなく、永遠回帰を持ち出してくる。「すべてはすでに無限回繰り返されているかのように意志せよ。」

 カントにとって、ひとは服従を通して自らに法を与え、自律性を獲得する。ひとは誰でも自らの生の主人たることを願っている。誰でもが人格であり、世界市民という普遍的なタイプを体現しうる。これがカントの前提である。ニーチェが直面するのは別な事態である。多くの人は自ら奴隷たることを望んでいる。意志そのものに能動と受動(あるいは能動と反動)があるのである。したがって、タイプはいくつも存在することになる。少なくとも、主人だけではたりないのである。系譜学はこのタイプの歴史的変遷を扱う。しかも、ニーチェにとって、意志の自律は暴力的に叩き込まなければならない。カントは「啓蒙とは何か」で、啓蒙のモットーとして「敢えて賢かれ」を掲げたが、ひとがどのようにして自らの理性を自律的に使いこなす、彼のいう「成人」状態に達するのかは謎めいたまま放置されていた。ニーチェなら「暴力によって」と、啓蒙の秘密を直ちに暴露しただろう。

 意志の自律に先立って他なるものに曝されること自体はカントも知っていた。だが、意志の自律そのものが他なるものの優位のもとにのみ実現されるということを明らかにしたのは、何よりもニーチェの功績だろう。自律的主体を作り上げる暴力の問題は、ニーチェから、一方でアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』へ、また、他方では、フーコーの規律訓練論へと展開されていく。さらに、それらともずれるかたちでレヴィナスの提唱する「第一哲学としての倫理学」、存在論に先立つ他者論がニーチェの問題圏を引き継いでいく。

 ここでカントにとってのタイプとニーチェにとってのタイプの意味するところの違いを見ておこう。少なくとも、ニーチェにとってカントのタイプ論が飽き足らないのは、カントがタイプを導き出す普遍化を一種の一般化として、いいかえるならば、視点の交換を通じて視野を拡大し、なるべく多くの個体を包含できるようなルールを確立することとして捉えている点にある。ニーチェにとって問題なのは、ディオニソス、アポロン、ソクラテス、ツァラトゥストラ、あるいは、ハムレットやドン・キホーテといった「文学的形象=人物」が表現する普遍性である。これらの形象はそれが特異的singularであればあるほど普遍的である。ドゥルーズによれば永遠回帰において肯定されるのは生成の結果としての個体ではなく生成そのものである。生成は前個体的であると同時に集合的である。つまり、それはダイアグラムのコミュニケーションなのである。私たちの生は、ちょうど個体発生が系統発生を反復するといわれるのに似て、歴史上すべての固有名=生成のダイアグラムを包摂している。私たちはみなハムレットであり、ドン・キホーテであり、オイディプスであり、ディオニソスである。それは、これらの固有名を足して平均したような仕方でそうなのではない。私たちは、ある逡巡の瞬間、すでに無数に反復されたハムレットとなる。私たちはつねに、ある固有名から別の固有名へと飛び移る。この移行こそが(変容としての)情動affectionであり、ニーチェの文体はこのような情動に貫かれている。

 カントにとって反復=模倣すべき他者は一般化された他者としての市民であったが、ニーチェのこのようなパースペクティヴからは、反復すべきダイアグラムは他の市民にとどまらない。それどころか反復されるべき固有名は狭い意味で歴史上のものにかぎられない。それは自然史/自然誌にも拡張される。自然種名、あるいは地理学的、地質学的な固有名も、私たちに反復を命じる固有名、ダイアグラムなのである。ある場所のエコロジー、それも固有名であり、それを構成するさまざまな事物の表面、そのざらつきや輝きや硬さやぬめりは、私たちにそれに従うことを強いる命令でもある。すべての事物の表面は顔である。それは、私たちに何ごとかを命じるのだ。
動物になる、世界になる――グローバリゼーション

 世界化。世界はどのようにして世界になるのか。ひとびとを「世界市民」へと仕立てあげる暴力は2001年の9月11日以降、ますますあからさまに軍事力との結託を強めてきている。新自由主義はすべての人間を労働力という相のもとで、記号化し、平等にし、交換可能にしようとしている。それに対して、リンギスは、等価交換など考慮にいれることのない純粋な贈与を動物性と呼ぶ。自分を拷問したかつての政府軍兵士を釈放したニカラグアのサンディニスタや、ペルーの日本大使公邸を占拠したゲリラたちに、また、先進国から来た観光客の食べ残しで辛うじて生きていくブラジルのストリート・チルドレン、そして、先進国の中産階級の観光客であるリンギスにナイフを突きつけて財布を奪ったブラジルのストリート・ギャングの少年たちのうちに、そういった贈与を見て取る。ストリート・ギャングの少年たちはその動きの見事さや、ナイフの冷たい感触を通してリンギスにエロティックな悦びを与える。それは決して財布の金との交換を形成しはしない。過剰な贈与なのだ。

 生きること、それは何よりも享受であり、贈与である。交換なき生、動物になること。動物的生は世界が貧しいとハイデガーはいう。今日の資本のグローバル化は、貧しい世界ばかりでなく、世界の貧しさの中で死にゆく生を生み出している。だが、この貧しさこそがすべてを交換可能にする資本のダイアグラムに対抗する私たちの過剰(への)生成であることをリンギスは教えてくれるのである。
文献案内 〜現象学入門〜

 いままで現象学にほとんど触れたことがないという人にとって導入のための文献を挙げる。個人的には新田義弘『現象学とは何か』(かつては紀伊國屋新書、現在は講談社学術文庫)が愛着があるし、いまでもフッサールに関するよい入門書であるといえるだろう。さらに現在では谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書、2002年)を挙げることができる。これらの本からは本当に学ぶことができる。それから、哲学よりも文学や芸術に馴染んでいる人には、ホフマンスタールやムージルといった同時代のオーストリア文学とフッサールの関わりを通して現象学を描き出したF.フェルマン『現象学と表現主義』(木田元訳、講談社学術文庫)がとっつきやすいだろう。
 また日本も現象学研究の盛んな地域であるので、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティのどれをとっても専門的研究は、もともと日本語でかかれたものも外国語からの翻訳も事欠かないので実際に手にとって読みやすいものを選べばよいだろう。

◆ アメリカ現象学
John Sallis
Spacings - of Reason and Imagination, University of Chicago Press, 1987
Echoes : After Heidegger, Indiana Univ Press, 1990
Chorology : On Beginning in Plato's Timaeus, Indiana Univ Press, 1999
Force of Imagination : The Sense of the Elemental, Indiana Univ Press, 2000

David Farrell Krell
Daimon Life : Heidegger and Life-Philosophy, Indiana Univ Press, 1992
Infectious Nietzsche, Indiana Univ Press, 1996
Architecture : Ecstasies of Space, Time, and the Human Body State Univ of New York Press, 1997
Contagion : Sexuality, Disease, and Death in German Idealism and Romanticism, Indiana Univ Press, 1998

Don Ihde
Technology and the Lifeworld : From Garden to Earth, Indiana Univ Press, 1990
Expanding Hermeneutics : Visualism in Science, Northwestern Univ Press, 1999
Bodies in Technology, Univ of Minnesota Press, 2001

◆ 身体論
 リンギスが参照する身体論の多くはメルロ=ポンティが『知覚の現象学』で用いていたゲシュタルト心理学系のものだが、興味深いのは、彼がメルロ=ポンティ以後の仕事で参照するのがアフォーダンス概念の提唱者であるJ.J.ギブソンの仕事であるということだ。「身体図式」論を豊富化するためには、現代の認知の理論、とりわけ、佐々木正人を中心として展開されているギブソンの生態心理学を継承する仕事とつき合わせていくことが生産的だろう。

ニコライ・ベルンシュタイン『デクステリティ 巧みさとその発達』工藤和俊訳、佐々木正人監訳、金子書房、2003年
多賀厳太郎『脳と身体の動的デザイン――運動・知覚の非線形力学と発達』金子書房、2002年
エドワード.S.リード『アフォーダンスの心理学――生態心理学への道』細田直哉訳、佐々木正人監修、新曜社、2000年

◆ 顔、表面、命法
 E.レヴィナス『全体性と無限』(合田正人訳、国文社、1989年)の第三部「顔と外部性」、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』(河出書房新社、宇野邦一他訳、1994年)の「7 零年―顔貌性」、それに、佐々木正人『レイアウトの法則――アートとアフォーダンス』春秋社、2003年。
 リンギスの事物の命法を展開したものとしてはリンギスの弟子に当たるSilvia Benso, The Face of Things : A diffferent side of ethics, State University of New York Press, 2000

◆ 動 物
 英語圏(合州国に限らない)の現象学ではエコロジーや動物の権利の問題圏と現象学との対話も見られる。

H. Peter Steeves (ed.), Animal Others : On Ethics, Ontology, and Animal Life (Suny Series in Contemporary Continental Philosophy), State Univ of New York Press, 1999
Cary Wolfe, Zoontologies : The Question of the Animal, Univ of Minnesota Press, 2003
Charles S. Brown, Ted Toadvine, Eco-Phenomenology : Back to the Earth Itself (Suny Series in Environmental Philosophy and Ethics), State Univ of New York Press, 2003
John Llewelyn, Seeing Through God : A Geophenomenology (Studies in Continental Thought), Indiana Univ Press, 2003

◆ 世界と出遭う
 リンギスのラテンアメリカへの言及を理解するためには、ラテンアメリカ思想研究の崎山政毅(彼もまたリンギスの愛読者である)による『サバルタンと歴史』(青土社、2001年)をぜひとも読んでほしい。

ジルベルト・ディメンスタイン『風みたいな、ぼくの生命――ブラジルのストリート・チルドレン』神崎牧子訳、現代企画室、1992年
小倉英敬『封殺された対話――ペルー日本大使公邸占拠事件再考』平凡社、2000年
歴史的記憶の回復プロジェクト(編)、『グアテマラ虐殺の記憶――真実と和解を求めて』飯島みどり・新川志保子・狐崎知己訳、岩波書店、2000年
エリザベス・ブルゴス『私の名はリゴベルタ・メンチュウ――マヤ=キチェ族インディオ女性の記録』高橋早代訳、新潮社、1987年
解説者紹介

田崎英明 (たざき・ひであき) TAZAKI Hideaki

1960年生。専門はセクシュアリティと「政治的なるもの」の理論。著書に『ジェンダー/セクシュアリティ』(岩波書店,2000年),『売る身体/買う身体:セックスワーク論の射程』(編著,青弓社,1997年),『歴史とは何か』(共著,河出書房新社,1998 年)などがある。論文に「無能な者たちの共同体」(『未来』連載中,未來社)など。