エリザベート・ルディネスコ
『いまなぜ精神分析なのか――抑うつ社会のなかで』
 序 文

   人間の手になったものは破壊されやすく
   それらを生んだ科学や技術さえ
   その破壊のために用いられかねない
ジークムント・フロイト「ある幻想の未来」より

まえがき

 ひとつ確認したいことがあって、この本を書きました。わたしはずっと、こんなことを考えてきました。精神分析がこの世に登場し、そしてゆるぎようのない臨床的成果をあげてから百年がたちました。しかしいまこの学問は、手ひどく非難されるようにもなっています。そういうひとたちはこう言うのです。こころの苦しみは脳に原因があるのだから、そこに働きかけることのできる化学療法のほうが精神分析よりずっと効果的だ、だからはやく治療法をあらためるべきだと。いったいなぜこういうことになったのでしょう。

 わたしはそのような化学物質の有効性に異議をとなえるわけでも、またそれらがもたらすいっときの安らぎを無視しているわけでもありません。ただ、そのようなさまざまな化学物質が、普通のものであれ、病的なものであれ、こころの苦痛を癒(いや)すことはできないということを示したかったのです。それぞれのひとの主体性を形成しているのは、死、情念、セクシュアリティ、狂気、無意識、他人との関係といったものなのですから、およそ科学という名に値するものならいかなるものであれ、けっして主体性を窮(きわ)めつくすことはできないでしょう。たいへん運の良いことにね。

 精神分析は、文明が野蛮に向かって歩んでいるということを証言します。そして、人間がみずから自由に発話するという考えを、その運命は生物学的存在に限定されないという考えを、取り戻させるのです。こうして精神分析はこののちも、思考を神経へと還元する、あるいは欲望と化学的な分泌物を混同するような蒙昧(もうまい)な主張にたいして闘っていくために、他の諸科学とならんで重要な役割を果たすことでしょう。